悟りに関して

”覚醒・目覚め・一瞥”と”悟り”の違いって?「覚醒と悟りは全然違うよ」というお話 ノンデュアリティ 不二一元論

 
 
こんにちは。
 
リリです。
 
 
今日は
 
「覚醒」と「悟り」の違いについて。
 
 
私の中でずっと謎だったのが
 
「覚醒・目覚め・一瞥と悟りってどう違うの?」
 
という部分でした。
 
 
というのも、禅の僧侶であり、
アメリカで大人気の覚者アジャシャンティが
 
「「覚醒」が起きて、大笑いしたあと、
ハイヤーセルフの声で
 
「もっと先に進みなさい!」
 
と聞こえた為、
そのあとまた7年間、探求を続け、
深い悟りに至った。
 
 
この時、自分で
過去生のカルマを消していくことが起こり、
分離は完全に過ぎ去った。
 
全てが自分だった。」
 
 
と話していたからです。
 
 
 
面白いのが
 
深い悟りに至った時、
今までの転生のカルマを
今世のアジャシャンティ自身が、
絵画の中に入っていくように
それぞれ入っていて、
自分自身で終わらせたんだそう。
 
 
初めてそのエピソードを聞いた時は
 
「なんじゃそりゃー!!すごすぎ!」
 
って思ったんですが、と同時に、
 
「ということは悟りには段階があるのだろうか?」
 
という疑問も湧いてきたんです。
 
 
悟りのプロセス、段階は
人それぞれ全く異なってくるのだとは思いますが、
そこから色々な悟りの本や映像を見ていく中で
 
実際にその段階的悟りは
多くの人に起こっていること
 
だと知ることができました。
 
 
イギリスの覚者ムージの場合、
 
突如、覚醒が訪れて、
でも自身の中にまだ恐れの塊が
あることに気づいていたそうなのですが、
インドの聖者パパジによってそれが完全に取り除かれた。
 
と言っていました。
 
 
そのムージの覚醒を促した
インドの聖者パパジも、
 
6歳の時に一瞥が起こり、
その後、猛烈な神の探求が行われた後、
アルナーチャラの聖者ラマナによって、
深い悟りに至った。
 
といわれています。
 
 
アメリカの有名な覚者、
トニーパーソンズは20代前半で一瞥を体験し、
その後40年以上先で悟りに至ったということも。
 
そんな風に、一瞥から探求の日々が
気の遠くなるほど長く続いた人もいるのです。
 
 
奇跡講座の副読書として有名な
「神の使者」では、そのことに関して
 
「非二元」…自我としての「私」がまだある状態
 
「純粋な非二元」…自我としての「私」がなく、
完全に実在(神・真我・絶対なるもの・私ー私)に近い状態
 
と表しています。
 
 
ただ、誤解のないように伝えておくと、
「奇跡の使者」の
この表記は誤解も招きやすいかと。
 
 
というのも、
非二元の定義は人それぞれに違い、
非二元文庫と紹介されていて、
純粋な非二元、アドヴァイダ(不二一元論)を
説く本もたくさんあるからです。
 
 
そんな中、表面的な理解で
 
「あ、これは非二元と書いてあるから、
純粋な非二元ではないということなんだ。」
 
と捉えてしまうことにも
繋がりかねないからです。
 
 
 
そこらへんはただの言葉のトリックなので、
表現に囚われることなく、
内容の本質を見抜けるようになると
良いかと思います^^
 
 
 
…と、前置きが長くなってしまいましたが、
じゃあ今回は
 
 
一体、一瞥・覚醒とは何なのか、
悟りとは何なのか。
 
 
ということに関して、
お話させていただこうと思います。
 
 
 
私自身に、一瞥・覚醒・目覚めが
起こった今だからこそ、
この違いがはっきりとわかります。
 
 
 

「一瞥・覚醒・目覚め」と「悟り」の違い。

 
私に一瞥・覚醒が起こって気づいたこと。
 
それは、
「一瞥・覚醒・目覚め」は体験に過ぎない
 
ということでした。
 
 
体験はやがては過ぎ去るもの。
 
 
つまりは不変ではないものです。
 
 
不変でないものは真理ではありません。
 
 
不変なものが真理であり、
それは、ただ、在ります。
 
 
「一瞥・覚醒・目覚め」は結局、
真我・神・純粋意識・実在・愛…呼び方は何でもいいですが、
”非二元のそれ”に、
接触することが一瞥・覚醒・目覚めです。
 
 
 
その時、真理への無知は取り除かれます。
 
 
あなたは真理を知ったことになり、
「一瞥・覚醒・目覚め」
が起きたということになります。
 
 
 
ですが、
それがやがては過ぎ去る”体験”である限り、
また無知に戻る可能性はあるし、
”それ”との接触に努力を要する限り、
「悟り」ではありません。
 
 
”それ”と何の努力もなく、
接触し続けることができるようになったのなら、
”それ”に限りなく近い境地に至ったら、
それが「悟り」です。
 
 
「悟り」を知った人に
プロセスはもう存在しません。
 
 
カルマの燃焼や、浄化、
そういった類のプロセスのようなものは
もう一切、ないのです。
 
 
そのようにして見ていくと、
この世界において、
 
「自分は悟った。」
 
といっている方は多く存在しますが、
悟ったと言っている人の中でも、
 
覚醒はしていても悟ってはいない人
 
というのは多く存在しているように思います。
 
 
 
私自身、「一瞥・覚醒」を数年おきに体験して
それぞれ「真我・実在・神=”それ”」と
接触するような体験ではありましたが、
それは過ぎ去っていく”体験”でした。
 
 
 
「真我・実在・神=それ」と絶え間なく接触し、
絶え間なく”それ”として在った悟り人は、
 
ラマナ・マハルシ パパジ ムージ アジャシャンティ
ニサルガダッタ・マハラジ アナンダマイマー
 
ここら辺の方々のように感じます。
 
 
直感的なものなのですが、
ラマナ・マハルシの写真と書物を読んだ時、
 
「あ、この人は本当に本物だ。」
 
と感じました。
 
 
(写真:ラマナ・マハルシ)
 
 
一貫した真我視点からの帰依者へのアドバイスなどを見ても
ラマナが今世紀最大の覚者
言われているのが頷けます。
 
 
結局、「真我・実在・神=”それ”」と接触し、
知ること(覚醒)自体、難しいものですが、
「真我・実在・神=”それ”」との接触を努力なしで行い、
限りなく近くこと(悟り)は
本当に困難なことといえます。
 
 
でも、だからと言って
「真我・実在・神=”それ”」にフォーカスを当てることを
やめてしまえば、人間に戻ってエゴが活発化するだけ…。
 
 
そう思うとやっぱり、
「真我・実在・神=”それ”」にフォーカスを当て続けることは
本当に大切なことです。
 
 
まあでも悟るぞ!!と気負ったり、
悟り沼にはまり込んで苦しむ必要も
また、ないと思うけれど…。
 
 
ちなみにこの”真我にフォーカス”に関しては、
ムージがとてもわかりやすい例えをしていたので、
以下の記事に書きました。
 
 
 
興味のある方は読んで見てくださいね^^
 
 
ということで、今回は
 
”覚醒・目覚め・一瞥”と”悟り”の違い
 
についてお話させていただきました。
 
 
”悟り”にはもうプロセスはなく、
”覚醒・目覚め・一瞥”の段階においては
まだ個人としてのプロセスが感じられます。
 
 
これらを教えてくれた
様々な覚者に感謝です^^
 
 
それでは今日はこの辺で。
 
 
愛を込めて。
 
 
 
PS.
 
リリの「悟り」に向かう中での気づきを踏まえた
対話セッションに関しては 
以下のリンクからご予約いただけます。
 
 
 
ご希望の方はお気軽にどうぞ^^
 
 
それでは今日も、
最後まで読んでいただき
ありがとうございました。
 
 
リリ